原將人と同じ1950年生まれの森田芳光は、78年に『ライブイン茅ヶ崎』を撮り、ぴあフィルムフェスティバルの前身となった自主映画展で入選し、80年代に商業映画デビューした。それに比べて、79年に最初の妻とのあいだに長男が生まれた原將人は、その後10年間、テレビ番組やPR映像を制作して家族を養うことになり、いったん映画の世界から離れる。とはいえ、世間に認められたのが森田より10年も早かった原が、「森田とともに日本の8ミリ映画ブーム、ひいては現在のPFFにつながる若者の自主映画ブームをつくった先駆者であることはまちがいない」と、掛尾良夫(元キネマ旬報編集長)は筆者によるインタビューで語っていた。
中期は「ドキュメンタリーと劇映画の時代」である。1993年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、原將人は『初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと)』の93年版を特別上映し、95年の同映画祭で22年ぶりとなる映画の新作『百代の過客』を発表して「天才少年の帰還」と騒がれた。原と15歳の長男が芭蕉と曾良のように東北の「奥の細道」を旅し、俳句を詠み、作曲し、自分たち親子にカメラをむけたドキュメンタリーだった。このときも原は、河瀨直美の『につつまれて』(92)や寺田靖範の『妻はフィリピーナ』(94)とともに、当時最先端だった90年代におけるセルフ・ドキュメンタリーの系譜をさっそうと切り拓いた。
1997年に『ロードムービー家の夏』で3回連続、山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品した原將人。その同年に発表したのが、初の劇映画となった『20世紀ノスタルジア』である。同作で監督協会新人賞を受賞したのには今更感があったが、広末涼子がブレイクする直前の95年当時に彼女の才能を見いだし、初主演映画に導いたことは強調してもよい。放送部の女子高生と個性的な転校生の男の子の恋愛映画だが、同時にミュージカルとしても楽しめる本作の楽曲は、『初国知所之天皇』、『百代の過客』に続き、原自身が作詞・作曲を担当してCDアルバムも発売された。この頃から日本では携帯電話が普及しはじめ、セルフィー(自撮り)という言葉が生まれたのは2003年頃とされるが、原はセルフ・ドキュメンタリーの手法を劇映画に大胆に導入し、広末に小型ビデオカメラを持たせて自撮りさせる斬新なカメラワークを駆使して時代をリードした。
中期と後期はどこに線を引くかが難しいが、筆者は原將人の映画にミューズである「原まおり(真織)」が登場する2002年以降と考えたい。大分県日田市の日田市長の家に生まれたまおりは、映画を作りたい、映画監督になりたいと考えて、由布院映画祭を手伝っていたところで原と出会った。親子ほど年齢が離れていたが、親の反対を押し切って結婚して京都で暮らし、ふたりにとっては長男の鼓卯(こぼう)が生まれた。ふたりの馴れ初めについては筆者が撮った原將人の伝記ドキュメンタリー『映画になった男』(18)に詳しい。
1999年に日の丸・君が代が法制化されたことを契機に、新作のロードムービーを撮りはじめる。真織がこぼうを産んで首がようやくすわった頃に、京都、大分、沖縄を夫婦と幼子が日本探しの旅をするセルフ・ドキュメンタリーが、やまと言葉で、ひとり、ふたり、みたりと「三人」を意味する『MI・TA・RI』(02)だ。本作の驚くところは、スクリーンに投影される三面マルチ画面の両脇が8ミリ、真ん中がヴィデオという特異なハイブリッド形式に加えて、映像を上映しながらライブで原がピアノ演奏し、原と真織が歌とナレーションを重ねるという上映形態の革新性にある。いわば『初国知所之天皇』のライブ上映を夫婦でおこなうのだが、完成した作品は「女性が新しい命を宿すこと」をテーマにした、それまでの原作品にはない女性映画になった。「この時に原から共同監督の提案があったが、まだヒヨッコだった私はとんでもないと思った」と、真織は言う。
原將人は2007年に劇映画第2弾『あなたにゐてほしい Soar』(13)の撮影に入るが、さまざまな要因で撮影は中断し、原は多額の借金を背負い、映画が完成して公開されるまで8年もかかった。戦時中に兵役で婚約者を失った女性を原真織(観音崎まおり名義)が演じ、全編にわたって歌って踊る和風ミュージカルであり、昭和30年代のテレビの時代を独自の視点で捉えたものだ。63歳にして原は双子の娘の父親となり、iphoneで家族の姿を撮影するシリーズをはじめて、『双子暦記・私小説』(18)と『焼け跡クロニクル』(22)の2本を完成する。特に後者は自宅が火事で全焼し、大やけどを負った原の姿を真織が撮影した共同監督作になった。(現在、『双子暦記・星の記憶』を編集中)
クロニカルに原の映画世界をたどると、シネマの神の手によって、彼の人生に次々と映画のモティーフとなる困難な事件が降りかかっていることがわかる。まさにシネマを撮りつづける宿命の星のもとに生まれた映画詩人、それが原將人であり、そのミューズが真織ではなかったか。『焼け跡クロニクル』には、天才映画少年が50年後に大やけどした姿が映っているが、それは、みずから火のなかに飛びこみ、何度でも蘇ってくるフェニックスそのものではないか。